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2009年07月09日

劉備(りゅうび)

劉備(りゅうび)

劉備(りゅうび) 玄徳(げんとく) 161〜223年
蜀漢の初代皇帝、昭烈帝。
涿郡涿県の人。前漢の景帝の子中山靖王劉勝の子孫と称した。214年に漢中王。221年に帝位につく。

黄巾の乱に義勇兵を率いて官軍に参加、名をあげた。その後旧友・公孫サン陣営に加わった。
西暦193年、曹操が徐州に侵攻すると、刺史・陶謙の援軍に赴く。
陶謙には深く信頼され、その死に際して徐州を託され、初めて領地を得た。
しかし当時身を寄せていた呂布により乗っ取られ、劉備は曹操のもとに落ち延びることとなった。
呂布滅亡後、機を見て再び徐州の主に返り咲き、曹操に反旗を翻すが敗北、今度は袁紹を頼った。袁紹が官渡の戦いで敗れると荊州の劉表のもとに身を寄せた。
西暦208年、曹操が南征軍を起こすと荊州は降伏、劉備は江陵に拠って対抗しようとしたが、その途上長阪で大敗し、張飛らの活躍でなんとか逃れることができた。
その後起った赤壁の戦いでは呉と連合し、周瑜の活躍で曹操軍を撃退した。
赤壁の戦い後、空白地と化した荊州南部を領有、地盤を築くと西方益州の劉璋を降して 『天下三分』を現出させた。
しかし兼ねてより呉との懸案であった荊州領有問題がこじれ、荊州が呉に占領され総督・関羽が討たれてしまう。
西暦221年、劉備は蜀漢を建国し皇帝となったものの、呉に報復したい気持ちを捨てきれずついに出兵した。
当初は呉軍に連戦連勝であったがまもなく戦線は膠着、長期戦となる。
状態を打開できず士気が低下したところを呉将・陸遜に攻撃され大敗した(夷陵の戦い)。
まもなく失意のうちに病死する。

posted by カエルの日 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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